2015年2月12日木曜日

ローリングガールズを4話まで見て分かったこと【アニメ批評】

とりあえず4話まで見ました、ローリングガールズ。
すごいアニメとまでは言えませんし、面白いアニメかと言われましたら別ですが、
主役の声優やら、キャラデザやら、恵まれてるものはあるかもしれませんね。
(個人的にはtanuはアキバズトリップ2のデザインもしてよって感じですが)

で、私がこの4話を見て思ったのは
この4話を所沢編と東京編に分けることで、まったく違うアニメになるということでしょうか。
同じアニメですが、やりたいことや描いてあることがまるで違うのです。
これはアニメでやったら「自己満足アニメ」「設定詰め込みすぎ」と批判されます。
少しローリングガールズから脱線しますが、

アニメや漫画、小説、映画では、作り手が読み手に対して伝えたいことが一貫していると
それが、どんなに不条理なものでも必ず読み手に伝わります。
伝えたいことは基本的に単純なものから共感になることの全てを含みます。

追体験に近いのでしょうか。ギャグ漫画家は最終的に笑いを、
ホラー漫画家は最終的に恐怖を、少女漫画家は最終的に感動を、読者に与えます。
作品は作り手が読み手に考えたものを送るツールとして機能していますから、
ストーリーもキャラクターも設定も、その伝えたいことの補助役になるのです。

作り手が読み手に対して伝えたいことがなかったり、作品への思いがまとまってない、というのはただの自己満足になるわけです。 小中学生と同じですが、漫画に影響されて俺も漫画描きたいというだけの人が描いた漫画は どれも黒歴史になるのではないのでしょうか?。  では「欲求でイラストや漫画を描いても面白い人はいるのでないか?」という疑問が私の中で生まれました。 絵を描きたいという欲が原動力の一つとなって描いてる人もいます、イラストサイトを見ればごまんといます。

しかし評価される作品を作る方はある程度 伝えたいことや作品に込めた思いがまとまっているのです。というか基本的には評価されるされない関係なく、どの作家も大概そうだと思います。
つまり次に生まれる問題は、作品の中身があるかないかではなく、詰め方になっていきます。

中身の詰め方とは何か。それは前述の通り、その作品の顔であり、体であり続ける部分です。 どういうことかと言うと、例に、作品へ詰め込みたい設定を全て貼り付けるとどうなるでしょうか。漫画ではあるあるですが普通なら没になりそうな駄キャラクター生まれたりします。あとは完全に忘れられる邪魔な設定とか、あるあるです。
だから作り手は 頭の中にある作品を作る上でやっていきたい設定の中から 今使うべきものと、後に取っておくべきものを取捨選択しなければいけないのです。
中二病の学生が描くものと、プロレベルの人が描く作品の違いはこういう部分にあると思います。



本題に戻ります、ローリングガールズの4話を所沢と東京の2話ずつに分けることで、
アニメの中にある本質的なものがガラリと変わってくるのです。
所沢編ではマッチャグリーンと執行の戦いが始まり、モサがなんだの過去に事故だの、自警団同士の戦いや、その自警団の設定の詰め合わせっぷり、突然のジェットコースター、執行の記憶で暴走するシーンなどなど、蛇足に感じたり足枷を味わうようなシーンが多々ありました。

そもそもマッチャグリーンと執行さんの戦闘シーンに魅力を感じなかったなんていう
味もそっけもないような感想は別として、モサのアニメ的不用さが苛立ちを覚えるのです。
いつの時代も、「制作陣はたくさん設定を考え、それをアニメで活かそうとするがあまり扱えず ファンブックで消化するオチ」というのは多々あるわけで。(レッカバンタイプムーン)

前述の内容の薄さ、もしくは詰め込みすぎによる濃さによって所沢編は苦痛でした。
2話の最後らへんから本編スタートでいいっすよ本当。


じゃあその3話から4話までの東京編。
このアニメの顔にすべき部分だと思います、荒はありますが。
<コミマ>という、いかにも詰め込みたい設定ですが、そこはいいでしょう。
ストーリーとして、できていたとも思います。ハートの石を集めたい、東京にあるかも、
行ってみたら誤解を受けて極刑に!、脱走して、なんやかんやあって誤解も溶けて解決。

小説家の人とか 籾山さんとか良い伏線を残したのも よかったのではないのでしょうか。
2話構成で話を消化するのは、某妖精さんアニメとかでしょうか。
待ち遠しいものはありますが、この体系にして成功だったと思います。所沢編は苦痛でしたが。
ってただの感想になっていました。

東京編がウケるのはモサの戦いがないからでしょうか。
モサという 制作陣にとっては話の中でも重要な要素でも、視聴者からしたら そこまで重要な
ものではないということです。このアニメならモサ同士の戦いではなく主人公の4人を動かしたほうがウケているので一概には言えませんが、モサは戦いの要素ではなく その土地のキーキャラとしてだけ消費するのが このアニメにとってはいいのかもしれません。

次に、所沢を飛び出して冒険をしだした4人ですが、この冒険がいいんでしょうね。
3、4話でも大統領が♡を集めているというとこぐらいしか込み入った設定はありませんでしたから、詰め込みすぎないバランスが、よりスラスラと視聴できるようにしたのでしょう。


ただここまではあくまでも所沢編と東京編を比べて、なぜ私が別々の印象を抱いたのかということを述べただけにすぎません。問題は作り手、つまりアニメ制作陣が 今後どちらよりに傾くのかが大事なのです。私は憶測で話しているのですから、もともと制作陣が作りたいものは 私が理想とするものなのかもしれませんし、そうじゃないかもしれません。

所沢編であれど東京編であれど、作りたいことが一貫していなければいけません。
それはつまりどういうことか、疑問が浮かび上がります。
作品内で、FPSをやりだす漫画や、突然スポーツを始める漫画だってあるじゃないかと。
これは伝えたいこと、作りたいことの下位にあるものなのです。

前述の通り、キャラクター、世界観、は全て伝えたいことの補助役なのです。
(全てが伝えたいことと言ってもいいぐらいですがね)
途中でスポーツをやっても FPSを始めても、何してもその根本にある部分は何も変わらないと思います。それが一貫している漫画であれば。
ギャグ漫画で、スポーツやっても、料理しても結局はギャグに繋がります。
恋愛漫画で、スポーツやっても、料理しても結局は恋愛に繋がります。
ですから一話 一話で挟まれるイベントは 材料であって、作者が伝えたいことの補助役です。

つまりローリングガールズは新感覚・青春ロードムービーなわけですから、
作り手は「普通の子が平和もとめて旅をする」ところに意味を見出してほしいのです、
新感覚・青春ロードムービーしていない部分、つまり所沢編は私の考え方でいくとこのアニメのいらない部分になるのです、というのは極端すぎますね。前置きとでも。

女の子4人が各地を回る部分に目を向けたいわけです、作り手は。
だから旅に出ていない、女子4人も集まってない活躍してない所沢編が蛇足に感じたのです。
しかしあくまでも、これは私と制作側の言う新感覚・青春ロードムービーを私自身が欲していたからこそ感じたことであって、ローリングガールズを見て所沢編みたいなのを見たい人だっていないとは言い切れません。東京編を蛇足と感じる人もいるかもしれません。
しかしそれに関してはアニメ制作側すべてが悪いとは言えません、個人の趣向ですからね。


私としてはローリングガールズは、「私の中では」一貫した伝えたいものを持ち、それを伝えようとしているアニメだと評価をしたいわけです。ただ、今後の展開でそれはどう転ぶものかわかりません。新感覚・青春ロードムービーじゃないかもしれません。
その場合は作り手が悪いです。

あと4話のEDで静岡終了したのはクスリとも来ませんでしたが、
あれはスタッフが狙ってやっているのか、時間がないからないのか……。
小説版やら漫画版やらと展開はいろいろあるようですが、そちらのほうで出せなかったネタを出したり、紹介しきれなかった設定を出したりしても、このアニメを批評することには何も支障はありません。「小説版の設定があるんだから○○は××だよ」なんていうのは、私自身は非常に気に入らない部分があります。アニメの荒をそういう風に消化するのは冒涜です。
あくまでも、こういうのもあるんだよ という程度に耳に入れておきます。

最終的にはちょっと褒めましたが、いい材料でも調理の仕方が悪ければ糞アニメにだってなるし、良ければ神アニメになります。このアニメは材料こそいいんだから。
私はこのアニメ、応援していきたいですよ。ばんこ可愛いし。





































ばんこラクガキ。

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