2015年3月19日木曜日

グロテスクと美術と表現方法。

古来より、猟奇的な表現は小説や絵ともに 根強く作られてきた。
有名な絵画や、ちょっとマニアックな大昔の発禁本など、肉体や血、また特殊性癖が
いろんな面で展開していたのである。



私はグロテスクなものには、耐性こそあるものの、もちろんだが本物のグロテスクな現場に差し掛かれば、おそらく吐いてしまうかもしれないし、その臭いにもまた吐いてしまうかもしれないぐらい、現実と表現には大きな差がある。つまり絵や文章として見る猟奇的な表現は 防壁をつけたグロなのだ。
だが、私はそれを強く求めはしない。つまり、「グロいものを見たいから イロイロ探す」といった、育ち盛りな小中学生とほぼ同じような考え方で、美術を見ているわけではないというもの。
これはエロチックな描写にしても同じかと思われる。

私の中では美術的の中の一ジャンルとして、グロテスク、エロチックなものがある という認識なので、どれにしろ美術を鑑賞し、それに浸るということ自体は何も変わらない。
この絵はグロいから良い、この絵はエロいから良いというのは Pixivでの評価と変わらない。
あくまでも その表現の中に、何かしらの意味があるからこそ美術なのではないだろうか。

そういう意味では私は トイレに名前を描いただけのアートや、ゴミをそのままアートにしたりするのは、あまり好きではない。「それは美術ではない」とまでは公には言わないが、
全く好きじゃないし、そういうのが美術と言われると違和感しかない。
(ただ、60年代辺りに流行った 一回性のハプニング手法は面白いと思っている)

少し脱線したが、多少性的な、もしくは猟奇的な表現でも
それが美術であるなら、当たり前の中の当たり前として扱われるのだから、
何も心配はいらないのだ。 だが、一般的な美術とは言われない部分でそういった過激な
表現があれば、話は変わってくる。時と場合によって私は、それを擁護も批判もするだろう。



余談だが、ネットで狸を解体する動画を見ながら 食事をしていたところ
周りから「頭おかしい」と言われた。 よく考えなくても まったくもってそうである。

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